キハ32の砂撒き装置

今夏に愛媛・高知を訪れた際、予讃線松山以西や予土線土讃線でやたらと乗車したのが、キハ32。写真は、予土線江川崎駅での撮影です。

ホーム高が低いために車体床下の状態を間近に見ることができたのですが、よく見ると、動台車DT22Gの駆動軸に砂撒き装置が取り付けられているのに気付きました。

新製当時は砂撒き装置は搭載されていなかったのですが、勾配線区での運用時に空転が頻発したため、後付で設置されました。Wikipediaによると、1990(平成2)年に設置されたとのことです。ちなみに、キハ32と同時に投入されたキハ54、およびJR四国発足後に登場した1000形には砂撒き装置は(新製当時も現在も)設置されていません。

試しに、キハ32、キハ54、1000形の出力あたり軸重を計算してみました。

形式 重量 軸重 機関出力 駆動軸数 1PSあたり軸重
キハ32 26.9t 6.725t 250PS 1 0.0269t
キハ54 37.2t 9.3t 250PS×2 1×2 0.0372t
1000形 31.5t 7.875t 400PS 2 0.03936t

※重量は、キハ54は四国向け0番台、1000形はトイレなし車輌の数値

なるほど、キハ54や1000形と比較してキハ32は出力あたりの軸重が小さく、粘着上不利であることがわかります*1。重量過多・機関出力不足であったキハ40系の反省から、軽量車体・高出力機関という設計思想を採ったことは理解できますが、キハ32の場合、キハ40とは逆の方向にバランスの悪い設計となってしまったようで。四国には勾配区間も少なくないのだから、最初から勾配運用を考慮して粘着性能を確保した設計はできなかったものか……というのは後出しジャンケン的な批判でしょうか。

*1:同時に、1000形が意外と勾配線区向きであるという事実も。

四国の珍駅名

四国にある珍駅名というと、何といってもJR予土線の「半家(はげ)」が超有名。同じ予土線に「若井(わかい)」があるので(若井駅自体は土佐くろしお鉄道の管轄ですが)、その対比が面白がられるところでもあります。


あと、JR土讃線の「大歩危(おおぼけ)」「小歩危(こぼけ)」なんてのも有名なところ。

この他にも、あまり(というか、ほとんど)話題にはされませんが筆者が勝手に珍駅名と思っているものが存在します。今夏に帰省を兼ねて四国に行ったときに(先の半家・若井と合わせて)訪問してみたり。

角茂谷(JR土讃線


漢字で書いてもピンときませんが、「かくもだに」という表音は「蚊・蜘蛛・ダニ」を連想させます。害虫が三種も登場する駅名ってオイ。あるいは「掻くもダニ」とか。いずれにしても、全身がむず痒くなってきそうです。

真土(JR予土線


「ギンギラギンにさりげなく」ですねわかり(ry

はやぶさ

鉄ヲタ的には「はやぶさ」というと、かつて東京〜西鹿児島(現・鹿児島中央)間を結び、1997年には運転区間を東京〜熊本間に短縮、2009年3月をもって廃止された寝台特急列車を真っ先に連想するところでしょう。運転開始が1958年(当初の運転区間は東京〜鹿児島間)ですから、実に半世紀もの伝統を誇る愛称であったわけです。

2010年5月、2011年春に東北新幹線に導入するE5系使用列車の愛称を「はやぶさ」と命名するとJR東日本が発表したとき、「"はやぶさ"は伝統ある九州特急の愛称、東北新幹線になんてありえない、なぜ"はつかり"でないのか?」てな感想が多くの鉄ヲタから漏らされたりしました*1が、列車愛称が「国替え」をした例は今に始まったわけではありません。そもそも「ひかり」にしたって、かつては九州ローカルの準急列車名、更に遡れば日本統治時代の朝鮮総督府鉄道の列車名であったわけです。「ひかり」は国替えOKで「はやぶさ」はダメである理由は? 「伝統ある九州特急云々」以外の理由を筆者は寡聞にして耳にした例がありません。それは結局のところ鉄ヲタの戯言でしかないでしょう。伝統という錦の御旗の下に、馬鹿の一つ覚えのごとく一切の変容を認めないのも思考停止というもの。

ところで、2010年6月現在「はやぶさ」というと、その時点では存在しない列車の名よりも、日本の小惑星探査機「はやぶさ」の方が知名度的には遥かに高いかと。

2003年5月9日に打ち上げられ、小惑星イトカワタッチダウンしてサンプル収集を試み、その後数々の致命的トラブルに見舞われながらも関係者の並々ならぬ尽力によってこれらを克服、2010年6月13日に地球帰還(探査機本体は大気圏再突入により消滅)を果たした「はやぶさ」。足掛け7年、その波乱万丈の旅路については多くのところで語られているので、ここでは繰り返しません。

探査機「はやぶさ」の命名は、タッチダウンしてサンプルを収集・離脱というミッションのスタイルが、獲物を捕らえて飛び立つ隼の姿に合致するというのが公式の理由ですが、ロケット打ち上げ基地のある鹿児島へ関係者が出張する際によく利用したのが(飛行機利用が一般化するまでは)寝台特急はやぶさ」であった、という裏の理由もあるようです。「なんだ結局九州特急じゃないか」と思われるかもしれませんが、見ようによっては、鹿児島へ着いた「はやぶさ」が宇宙へ飛び立った、と言えなくもありません(我ながら、もの凄く強引なこじつけですが)。地球を飛び出し数億kmの彼方まで行って来た以上、地球に帰ってきただけでも御の字、その後どこを走ろうと大した問題ではありません。東北新幹線の列車名に「はやぶさ」が使われることへの違和感なんて、探査機「はやぶさ」の脅威の旅路に比べれば瑣末なことでしかなし。

結局何が言いたいかというと、伝統墨守も大切ですが、時代の変容への柔軟な対応もまた大事だという、ごく当たり前のこと。鉄道趣味界も、古参者の石頭や懐古趣味のせいで新しい血が流れ込まないようなことがあっては袋小路になるだけ、もっと柔軟になりましょうよ。願わくば、E5系はやぶさ」が時代遅れの鉄ヲタどもの戯言を吹き飛ばすまでに活躍してくれますように。

*1:「九州行と間違えて乗る人が続出しそう」なんてのもありましたが、そんな御仁が大勢居るくらいなら寝台特急の方も廃止になってないでしょうに。

異種扉混在

一つの車輌に異なる種類の乗降扉が混在する例は、路面電車ではいくつか見られるものの普通鉄道の車輌ではなかなかに珍しいとふと思ったり。以下、思いつくままにピックアップしてみました。

片開き+両開き

阿武隈急行8100系電車は、前位側は運転台直後に寄せられた片開き戸、後位側は車体中央に寄った両開き戸という一風変わった扉配置となっています。ワンマン運転を想定して運転台直後に扉を設けたいが、両開き戸だと戸袋部が乗務員室(というか、乗務員扉)に干渉してしまうため、客室側にのみ戸袋を設けるよう片開きとしたわけです。それならば後位のドアも片開きにしてよかったんじゃないかという気もしないでもないですが、ベースとなった国鉄713系(両開き2扉)からの車体設計の変更を抑えたかったのかも、と想像してみます。ちなみに、運転台側は車端寄り、反対の連結面側は車体中央寄りにドアを設けた2扉車は他にも国鉄キハ37の例があります。この扉配置の場合、2両編成としたときに編成全体で扉間隔が均等となるのがミソ。

同様に、ワンマン対応のために車端寄りに片開き戸を設けた結果として両開き戸との混在となった例としては、JR四国の1000形気動車(1500形との併結対応改造された1200形を含む)、7000系電車が該当します。

JR四国6000系電車の先頭車である6000形(Mc)および6100形(Tc')も、運転台直後のドアのみ片開きとなっていますが、これはワンマン運転を考慮したためではなく、車掌業務の利便を図るために(運転士が座った状態で、その後ろで車掌が扉開閉操作等を行ったり、乗務員扉からホームに乗降できるよう)運転台スペースを拡充した結果です。運転台側に戸袋を設けるのを避けるという目的自体は、先述のワンマン対応車の事情と同じですが。

引戸+外吊り戸(プラグドア)

1962(昭和37)年に登場した国鉄451系・471系の制御電動車クモハ451・クモハ471の1次車では、運転台側の乗降扉位置が枕梁に近接しており、ステップによる台枠の切り欠きが強度低下を招くため、戸袋を無くす目的で外吊り戸が採用されました。外吊り戸といってもキハ35系のような無骨なものではなく、閉じた状態では扉面と車体面がツライチとなる、今で言う「プラグドア」のようなものです。後位側は通常の戸袋式引戸。しかしトンネル入出時の気圧変動によりドアが開いてしまうトラブルが発生したため、2次車以降では台枠強化のうえ通常の引戸とされました。1次車にも同様の改造が施されています。

時が過ぎて21世紀、新幹線N700系で「引戸+プラグドア」の組合せが現れました。先頭車783・784形(Z・N編成)および781・782形(S編成)では、前頭部のエアロ・ダブルウィング形状による車体の絞り込みが運転台直後の乗務員扉および客用乗降扉と干渉してしまうため、平滑化のためにこのドアのみプラグドアを採用しています。言い換えれば、騒音低減・空気抵抗低減といった重要な目的でもない限り、構造の複雑なプラグドアをわざわざ採用する積極的な動機とはならない、ということかも。ちなみに新幹線の場合、機密性を確保するために、外側に開くタイプではなく戸袋を設けて車体内側にスライドする方式です。

内開き戸+外吊り戸

かつて和田岬線で使用されていたオハ64・オハフ64は、通勤時の激しい混雑に対応するため、ホーム側(兵庫駅和田岬駅とも同じ側)の車体中央部に外吊り戸を増設していました。旧型客車で一般的な内開き手動扉は当然そのまま。開き戸と引戸の混在というのはかなり珍しい部類かと。ちなみに増設された外吊り戸、一見するとキハ35系風の両開き戸のように見えますが、実際には広幅の片開き戸でした。筆者の手元に写真が無いので、図示できないのが残念ですが。

よくよく考えてみたら、「引戸+折戸」の混在という例は思い当たらないなあ。もちろん、路面電車では例がありますが。

北陸新幹線の異周波数切替セクション

2010年現在では「長野新幹線」の呼称で一般に呼ばれる北陸新幹線は、東京電力の50Hzエリアである群馬県と、中部電力の60Hzエリアである長野県をまたがって運転されています。このため、架線電流の周波数の境界部分では、両者の電流が混蝕しないよう、セクションによって架線を電気的に分離する必要があります。

在来線であれば、交直セクションでおなじみの「デッドセクション」とするところでしょうが、新幹線では常時力行運転が求められるため、惰行で通過する必要のあるデッドセクションを本線上に設けるのは都合が悪い。このため、前後をエアーセクションで区切った1.5km程度の中セクションを設け、列車が中セクション内に完全に入ったことを検知して中セクションへの給電を地上側で瞬時に切り替える「切替セクション」として対応しています。北陸新幹線において異周波数交流の切替セクションが設けられている場所は、軽井沢駅西方約5kmの「新軽井沢き電区分所」です。

もともと交流電化鉄道では、変電所間で位相の異なる交流電流を突き合わせるための「異相区分セクション」が随所に存在します。全線交流電化である新幹線も例外ではなく、異相区分セクションでの惰行を避けるために切替セクションという仕組みが開発された経緯があります。たまに「軽井沢〜佐久平間に、異周波数交流を突き合わせた新幹線初のデッドセクションが設けられている」などという言説を見かけることがありますが、異相区分セクションや切替セクションを知らないのかと小一時間程問い詰めてあげるとよろしいかと。

ところで、北陸新幹線の50/60Hz突合せ地点が、なぜ安中榛名〜軽井沢間の群馬・長野県境部でなく軽井沢〜佐久平間であるのか。多くの書籍やネット上では、「避暑地として多くの観光客が押し寄せる軽井沢まで、50Hz専用の編成を臨時列車として乗り入れ可能とするため」という言説がまことしやかに語られていたりしますが、果たして本当にそういう理由なのでしょうか。開業以来、50Hz専用編成まで総動員して軽井沢以東の区間で臨時列車を運行したなどという事実はありません。おそらくは川島令三氏の著書あたりで聞きかじっただけの知識を「トリビア」として吹聴、更にネット上で再生産されているのだろうと推測しますが、筆者にはどうにも後付けの理由のように思えてなりません。「万が一の架線事故等を考慮して、碓氷峠の急勾配区間に切替セクションを設けるのを避けた」という説の方がまだもっともらしく聞こえるのですが。

1989(平成元)年に北陸新幹線建設工事が着工したとき、いわゆる「フル規格」として着工したのは高崎〜軽井沢間のみ、軽井沢〜長野間は信越本線を改軌のうえ「ミニ新幹線」として乗り入れる計画となっていました。1998(平成10)年の長野冬季オリンピック開催が決定したこともあって、1991(平成3)年には軽井沢〜長野間もフル規格にて着工するよう計画変更されましたが、少なくとも着工当初の時点では、フル規格、言い換えれば交流25,000V電化となるのは軽井沢まで(以西は直流1,500V電化の信越本線へ乗り入れ)であったわけです。となれば、県境箇所に切替セクションを設けて軽井沢駅までのわずかな区間を60Hzとするよりは、軽井沢まで50Hzとするのが明らかに合理的です。軽井沢以西がフル規格となったとしても、そこで改めて切替セクションの計画場所を変更するよりは、軽井沢駅西方に切替セクションを設ける方が手戻りが無く好都合というものです。このように、建設の経緯から振り返ると、異周波数切替セクションの設置場所が軽井沢以西であることは1989年の時点で既定事項であったと考えるのが妥当でしょう。1988(昭和63)年のいわゆる「運輸省案」以前の全線フル規格による当初計画の時点からそうだったのか、運輸省案に基づき当初計画から変更された結果によるものなのかは、調査不足で一素人には追いかけ切れていないのですが。

仮に軽井沢〜長野間がミニ新幹線方式となった場合、軽井沢〜中軽井沢間に交直デッドセクションが設けられることとなったはずで、これはこれで見てみたかった気がしないでもないですが、それはまた別の話というか戯言なのでこの辺で。

地底のエアロック

前回エントリでも名前の挙がった、北越急行美佐島駅。赤倉トンネル内に1面1線のホームを持つこの駅は、単線断面トンネルという狭い空間内を特急「はくたか」が在来線最速の160km/hで突っ走るだけに、列車通過時の風圧がもの凄く、安全のため、普通列車停車時を除いてホームに出られないよう頑丈な自動扉でロックされています。

更に、地上へ上る階段の手前にもドアがあり、列車風が吹き抜けないよう、両者のドアは同時には開かないようになっています。

……どう見てもエアロックです。本当に以下略。

ちなみに、地上との階段は63段と、土合や筒石と比べると案外深くなく、言うほど「地底」っぽくはないのですが、一種独特の閉鎖空間ではあります。おまけに、列車通過時には「列車が高速で通過します。大変危険です。ホームには絶対に出ないで下さい」というガクガクブルブルな自動放送が。このエアロック内に待合室があるのですが、あまり長居はしたくないなあ。

駅はどこだ

JR北陸本線筒石駅といえば、全長11,353mの頸城トンネル内にホームのある「トンネル駅」「モグラ駅」として知られています。

1969(昭和44)年10月、地滑り災害の絶えない海岸沿いのルートを捨てて長大トンネルへと切り替えた際に、明かり区間から外れてしまう筒石駅はトンネル内へと移設されました。トンネル内のホームと地上との連絡は、建設時の斜坑を用いた階段での徒歩連絡です。新清水トンネル内の土合駅下り線ホームと同じですね。階段の横にエスカレータ等を設置可能なスペースが設けられているものの利用されていないのも、土合と同じ。

駅を出て、海沿いの筒石集落へ下ると、自転車歩行者道路に転用された旧線跡を確認することができます。当然、集落から離れて山側にある駅への案内標識もある……かと思いきや、「筒石駅」の文字は集落内にはなぜか見かけることができません。代わりに、こんな看板が。

ご丁寧にトンネル名まで案内しているのはともかく「斜坑入口」ってオイ。

「斜坑」を看板で案内するのは、おそらくは1972(昭和47)年11月6日に起きた北陸トンネル列車火災事故の教訓から、非常時の救難路として斜坑の場所を外部から把握しやすいようにとの意図かと推測します。実際、北陸トンネル周辺にも「北陸トンネル○○斜坑入口」の看板が見受けられるようです。なので、「斜坑入口」という看板自体は特段不思議でもないですが、筒石の場合は斜坑云々以前に「乗降可能な駅」なわけですから、ちゃんと「筒石駅」と案内してやったらどうよ?

ちなみに、筒石駅のトンネル内ホームは、北越急行美佐島駅のようにドアがロックされるわけではないので、通過列車がある場合でも出ることはできます。ただし、列車通過時にはかなりの風圧がかかるため、手でドアを開けるのは非常に困難。このときホーム上に出ていると待合室へ退避することができず、ホーム(これがまた狭い!)の壁にへばりついて手すりにしがみつき、最高130km/hの猛スピードで特急列車がすぐ傍を通過する恐怖に耐えなくてはならなくなります(←経験者談)。言うまでもなく危険なので、良い子も悪い子もマネしちゃだめだぞ。